スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

多事争論の間に在て存するもの
先駆者というのは、時代の狭間に生き、そしてその多くは、新しい時代を見ることなくこの世を去る。

例えば織田信長、坂本龍馬、大久保利通など。

どれも、自分の時代の使命を果たし、その後に始まるであろう混乱の時代を憂いながら死んでいった英雄たちである。


1995年という年も、ある意味で時代が変わっていた時期だ。

阪神大震災は多くの人の人生を変え、地下鉄サリン事件は無差別テロの始まりでもあった。

世紀末という言葉に操られ、政治も文化も廃れていく96年の2月に、司馬遼太郎が死去。

日本人は歴史という地図を失い、放浪の道を辿ることになる。


そして、世界恐慌が再来し、世界中で変革が起きている此の時代に、一人の偉大なジャーナリストがこの世を去った。

力を失いつつあるマスメディアが、今後生き残る唯一の鍵はジャーナリズムにあるように思う。
ただ議論・評論をする事だけがジャーナリストの使命ではない。

その時代に最も必要なものは何か、一番欠けてしまっていることは何かを見つけ、世の中に問うことこそが、ジャーナリストのやるべきことである。

そういった意味で、筑紫哲也の世の中に対する投げかけは、いつも的確な問いだった。

子が親を殺す- という信じられない事件が起き始めた10年ほど前に、彼の特集した『あなたにとって絆とは?』というテーマは、今でも記憶に鮮明に残っている。

たしかに、それで殺人が減ったという事実は無い。
「こうあってほしいと思うことを語ってきたが、その方向に世の中が進んだことはない」
という彼の言葉は、本当の事だろう。

しかしながら、時代を動かすことがジャーナリストに限らず、人間の目的ではないように思う。
時代を見据えて自分の使命を全うする、ということが生きるということではないだろうか。

最初に挙げた3人も、理想の時代を夢見ながらも、自ら動かすことなく無念の死を遂げた。
だが彼らがいなければ、今の時代が存在しないことも確かである。

時代の流れに正解は無い。
各人が、自らの信念に従って、時代に託された責任を果たすこと。
そんな意味を、福沢諭吉の多事争論という言葉を借りながら、筑紫哲也の背中は語っていたように思うのである。
スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://ari2road.blog62.fc2.com/tb.php/126-b87ef60a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。